敦賀港は、1920年代にポーランド孤児、
1940年代に「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港。
当時の建物を復元した資料館
「人道の港 敦賀ムゼウム」では、
孤児と難民が上陸した歴史、彼らに手を差し伸べた人々のこと、
そして敦賀のまちの人たちが迎え入れた様子を後世に伝えます。
ムゼウムでは、数々の困難を乗り越えて敦賀に降り立ったポーランド孤児とユダヤ難民の史実を中心に、
当時の敦賀市民の証言やエピソードのほか、今も続く関係者との心温まる交流を紹介しています。
1940年から1941年にかけて、歴史に名を残した外交官・杉原千畝によって助けられた約6千人ものユダヤ難民が敦賀へ上陸したという歴史があります。
1912年、ウラジオストク航路に接続する欧亜国際連絡国際列車が東京・新橋駅と敦賀港に隣接す金ヶ崎駅に運行されたことも、敦賀の発展に拍車をかけた。
当時、新橋駅からフランス・パリまでの切符が購入できたという。この列車は週3回、東京を夜出発する神戸行き急行寝台列車に連結し、翌朝、米原で切り離し、金ヶ崎へ。
夕方に敦賀港から出航するウラジオストク行きの定期船に連絡した。利用客は日本人とロシア人が多かったという。
ウラジオストクからは東清鉄道とシベリア鉄道に乗り継ぐことで西欧へ。
その一方で、敦賀港にはナチスの迫害を受け、故郷を脱出し、命からがら逃げきったユダヤ人が上陸している。
1920年にはロシア政府に反抗してシベリアに送られていたポーランド人(そのほとんどがユダヤ人)の孤児を救うため、
日本政府が救出計画を立て、3回にわたって765人の子どもたちが敦賀に上陸。
敦賀の人々は栄養のある食べ物を与えるなど、異国の子どもたちに親切に接した。その後、全員がポーランドへ帰国しました。
あまり知られていないこの歴史。一度足を運んで見て下さい。