島原・天草一揆で亡くなった 人々を祀る慰霊碑
キリスト教禁教下には日本各地で教会が破壊され、絵踏みなどによる取り締まりが行われました。
なかでも天草諸島と島原半島ではキリスト教徒に対する迫害に加え、飢饉や、領主の悪政によって多くの人が亡くなっていきました。
耐えかねた天草と島原の領民は、湯島で談合(話し合い)を重ね、2万数千人にも及ぶ一揆軍を結成。
天草四郎をリーダーに、すでに廃城となっていた「原城」や、「本戸城」「富岡城」などで幕府軍と戦いを繰り広げたのです。
のちに「島原・天草一揆」と呼ばれることとなったこの戦いで、犠牲となった人々を慰霊するためにつくられたのが「殉教戦千人塚」。
毎年10月の「天草殉教祭」では宗派を越えた祈りが捧げられます。