屯田の森の悲劇。
頓田の森平和花園は福岡県朝倉市頓田にあります。
現在は小さな公園ですが、ここはかつて子供たちの遊ぶ森がありました。
ここで78年前、ひとつの悲劇が起こったのです。
1945年3月27日、太平洋戦争中、大刀洗飛行場を爆撃するためにアメリカ軍のB29爆撃機、74機が飛来しました。
この空襲の際、誤爆により、頓田の森に逃げ込んだ児童たち31名の尊い命が失われたのです。
●生き残った窪山強一さんは語る
■それは修了式の日
「悲劇」が起こったのは修了式の日だった。当時、窪山さんは2年生で、5年生だった姉の千恵子さんと一ツ木地区から学校に通っていた。
「姉は勝ち気でけんかもしたが、よく遊んでくれた」と振り返る。
午前中に講堂で校長の話を聞いているときに敵機の接近を告げる警戒警報のサイレンが鳴った。
「サイレンが鳴ると集団下校になり、早く帰れるのでうれしかった。
これまで警報が出ても何事もなかったから」。
しかしすぐに空襲警報に切り替わり、校内に緊張が走った。集落ごとに引率の先生が付き、窪山さんたちは家を目指して走りだした。
「空を見上げるとキラキラ光る物が見えた。飛行場から飛び立った日本機かと思ったら星のマークが見えた。B29の編隊だった」。
やがて飛行場に落とされた爆弾が破裂する、腹に響く音がとどろいた。
一ツ木の児童は、大刀洗陸軍病院と飛行学校甘木生徒隊兵舎の間を通らないと家に帰れない。
いずれも重要施設で爆撃される可能性が高い。このとき飛行学校の兵士が「ここは危ない。
学校に戻れ」と先生に叫んだそうだ。「進退を迷った先生の目に入ったのが頓田の森だった。
木で覆われていて、ここなら生徒を隠せると避難させたのだろう」。窪山さんが森に入ると、どこかでくじいたのか千恵子さんが足を引きずり逃げてきた。
「それが生きている姉を見た最後だった」
■父母の怒りと涙と
木の根元に伏せた瞬間、激しい夕立のようなザーッという音とともに体が吹き飛ばされ気絶した。
「おれは死んだのか」。
ようやく目が開いたが土ぼこりで前が見えず、立つこともできない。
「かかとに爆弾の破片が突き刺さっていた。爆撃で森はズタズタにされ空がきれいに見えた。
木には服が引っかかり『水を』という声が聞こえた」
急を聞いた父母らが森に駆けつけた。そこには変わり果てたわが子の姿があった。
警察から「遺体を動かしてはならん」という指示が出ていた。「おれの子は見せ物ではない」。
親たちは亡きがらを抱き上げ家に連れ帰った。
1発の爆弾で千恵子さんら児童24人が即死。7人が病院で息を引き取った。
千恵子さんの遺体も家に運び込まれた。
頭が割れ片足がちぎれかけていた。
「取り乱した母親の『早く病院に連れて行って』という涙声が今も耳に残っている」。
窪山さんも足の傷がもとで高熱を発し、数日間生死の境をさまよった。