昭和20年(1945) 第二次世界大戦が終結し、旧満洲(現・中国東北部)や朝鮮半島をはじめ南太平洋など多くの国や地域に約660万人もの日本人が残されました。
これらの方々を速やかに日本へ帰国させなければならなくなり、“引き揚げ”が開始されました。
呉をはじめ順次18港の引揚港が全国につぎつぎと設置され、舞鶴もその役割を担うこととなり、主に旧満洲や朝鮮半島、シベリアからの引揚者・復員兵を迎え入れる港となりました。
舞鶴では昭和20年(1945)10月7日に最初の引揚船“雲仙丸”が入港してから昭和33年9月7日の最終引揚船“白山丸”の入港まで国内で唯一13年間にわたり約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れました。
海外にいた約660万人の日本人の引き揚げは、昭和20年(1945年)9月、米軍管区から開始されました。
オーストラリア軍管区、イギリス軍管区、中国軍管区からの引き揚げも、昭和22年中にほぼ終了。
ソ連軍管区からの引き揚げは、昭和21年12月から始まりましたが、容易には進展しませんでした。
国内各地に引揚港が設けられましたが、昭和25年以降は舞鶴港が国内唯一の引揚港となり、昭和33年の終了までに、延べ346隻の引揚船と約66万人の引揚者を受け入れました。
海外にいた約660万人の日本人の引き揚げは、昭和20年(1945年)9月、米軍管区から開始されました。
オーストラリア軍管区、イギリス軍管区、中国軍管区からの引き揚げも、昭和22年中にほぼ終了。ソ連軍管区からの引き揚げは、昭和21年12月から始まりましたが、容易には進展しませんでした。
国内各地に引揚港が設けられましたが、昭和25年以降は舞鶴港が国内唯一の引揚港となり、昭和33年の終了までに、延べ346隻の引揚船と約66万人の引揚者を受け入れました。
館内には、シベリアの地で使用したコートなどの防寒着をはじめ「引揚證明書」などの文書類など全国から約1万6千点の貴重な資料の寄贈を受け、常設展示にて1000点を超える展示をおこなっております。(収蔵資料のうち570点がユネスコ世界記憶遺産に登録)
白樺日記/世界記憶遺産登録資料
シベリア抑留中に、紙の代わりに白樺の皮を使用し、空き缶を加工したペンで煤を水に溶かしてインクにして、日々の思いを和歌にしたためたもの。およそ200首もの和歌で構成され、家族や故郷への想いのほかに、抑留生活中のことが表現豊かに綴られています。たびたびあった収容所での所持品検査をはじめ出港地のナホトカや舞鶴での所持品検査をくぐり抜け奇跡的に没収を免れました。
舞鶴引揚記念館の素晴らしさの一つに、引き揚げの歴史を詳しく説明してくれる「語り部」さん達の存在があります。館内には背中に「語り部」と書いた白いジャンバーを着ている方々がおられますので、館内の展示物、引き揚げの歴史などについて詳しく知りたいお客様は見学時にお声掛けください(無料)。
取材時は特別に舞鶴引揚記念館の山下館長にご案内頂きました。当時の瞬間に引き込まれるような語りで、展示資料のエピソード等、詳しく丁寧にご説明いただきました。